芥川比呂志と遠藤周作
芥川比呂志さんは慶応の仏文の先輩であると同時に、結核のほうでも主人より先輩でいらっしゃいました。ちょうど主人の三度目の手術の頃に、芥川さんも結核でシューブ(転移)を起こされて前後して慶応病院へ入院ということもありました。危険な三度目の手術も無事に成功して、主人はやっと退院できましたが、退院してからも主人は芥川さんのご容態を案じて時々お見舞いに伺っていました。
ある時、病室へ伺った主人に、芥川さんは「戯曲を書いてみないか」とおっしゃってくださったそうです。「演出は僕がするから」と思いがけないお誘いだったと後に主人も書いております。元々芝居は大好きでしたので、書いてみたいという意欲も段々と湧いてきたようでした。
新しく引越した玉川学園の家は前にも申しましたように空気が良くて、幸い我が家の周辺には樹木も多く残っていましたし、第一に高台でしたので、西に大山から丹沢の連山が一望に見渡せる眺望のよい土地でした。
それにもう一つ心強かったことには、主人の二階の書斎から谷を一つへだてたちょうど真向いの辺に、学生時代から堀辰雄先生や神西清先生のところで顔なじみでした評論家の谷田昌平さんが、以前から住んでいらっしゃいました。その頃、谷田さんは新潮社の出版部へお勤めで、しかもその頃新潮社の花形企画となっておりました"書き下ろし長編小説"のご担当でいらっしゃいました。
お互いにメガホンがあれば声も届くかとおもわれるほどの距離でしたから、私も日常の面で谷田夫人からいろいろと教えて頂いて、大助かりを致しました。主人も『沈黙』執筆中には、夜書斎に灯が灯っていなかったといっては、翌朝ご出社前に原稿のでき具合を見にきてくださったり、散歩のついでにお立ち寄りくださったりと心にかけて頂きました。谷田さんがご近所に住んでいらっしゃらなかったならば、『沈黙』のでき上りは確実にもっとおくれておたに違いありません。
題名についても相談にのって頂いたのだと思いますが、原案でありました『真昼のにおい』から『沈黙』に変更したことについても、アドバイスを頂いたお一人だと思います。『真昼のひおい』とは何とも奇妙な題ですが、自分では小説の内容とは対照的に何気ない題にしたかったようです。この時の経験で本の題名というものが如何(いか)に大事か、自分でも改めて自覚したようでした。
小説『沈黙』でキャラ(小説ではロドリゴ)のことを主人公としてとり上げましたので、戯曲ではその前篇という形でフェレイラのことを書きたいと始めから計画していたと思います。ただそれまで戯曲を書いたことがありませんでしたから、「黄金の国」の第一稿を芥川さんのところへ持って参りました時には、作劇術として初歩的なミスも多かったようで、「こんなこと舞台ではあり得ないなあ!」と言われてしまったそうです。自分では芝居を好きで長年観ていても「いざ戯曲を書くとなると、観ていたのとは全然勝手が違うんだ!」とよく申しておりました。
初稿の時には百姓A・B・Cと何気なく書いてありましたが、その時は芥川さんに「君は役者の気持ちがわからないのか、百姓A・B・Cでは役者がどうやってその人物を設定すればいいんだ!茂吉とかよねとかちゃんと名前をつけてやったらどうだ!」と叱られたようです。このようにして『沈黙』が出版されて一月半の後に、「黄金の国」は都市センター・ホールで劇団雲によって初演されました。
「黄金の国」の公演が成功裡に打上げた後、「今度は現代劇を書いてみないか?」とまたおっしゃって頂きました。今度ももちろん演出は芥川さんがなさってくださることになりまして、第二作目の戯曲「薔薇(ばら)の館」を昭和四十四年に書き上げました。戦時中から主人も心ひかれていた、軽井沢の旧道にある聖パウロ教会と覚しき教会が舞台となっている戯曲です。
芥川さんは演出プランを練るために三日ほど軽井沢に滞在したいとおっしゃり、主人も私ももちろん大喜びでお宿をさせて頂くことになりました。
芥川さんの頭の中には、寝てもさめてもお芝居のことしかないようでした。朝から晩までお芝居の話、「薔薇の館」の話ばかりでした。たまにスタッフの方の一人が芝居以外の話をなさったりすると大変な怒り方で、「下らん話をするな」「帰れ!」と叱られてしまいます。
主人も芥川さんのお身体のことが気になって、「もうお酒はそのくらいになさったほうがいいんじゃないですか?」とか「もうそろそろお寝(やす)みになって、つづきは明日になさいませんか?」などと申し上げるのですが、そんな時には主人まで叱られて「お前なんか帰れ!」と怒鳴られてしまいました。主人は台所へ来ては「帰れって言われても、ここは俺の家なんだよねえ」と途方にくれていました。
ただ私共のほうにも一つだけ芥川さんを説得する有力な武器がありました。息子の龍之介(※龍之介に傍点)です。芥川さんの健康が心配で仕方のない主人は、しまいにはついに奥の手を出して「オイ! 龍之介(※龍之介に傍点)! もう遅いから芥川さんのおじちゃまをお部屋にご案内しなさい! 龍之介(※龍之介に傍点)!」と大きい声で小学生の息子の名を何度も呼びます。さすがの芥川さんも「お前んとこの息子は龍之介なのか、俺はこれには弱いんだよ!」とやっとおみこしを上げてくださいました。
主人は、芥川さんの演出には満腔(まんこう)の信頼を寄せておりましたので、芥川さんが亡くなられてからは急速に戯曲を書く意欲を失ってしまったようです。戯曲に関しては筆を折ってしまいました。私もたった二泊三日のお付き合いでしたが、世の中にはまだこんな純粋な方がいらっしゃったのかと、お芝居に対する芥川さんの一途な思いに心から感動しました。
主人もお芝居を書く楽しさをちょっとだけ味わったところでしたので、もう少し長く芥川さんが生きていてくださったらと、何度も思ったようでしたが、芥川さん以上の演出家には自分は出逢えないと思ったのでしょう。芝居を書くことは最後に演出して頂いた第三作目の「メナム河の日本人」をもって断念してしまいました。
※遠藤順子氏は故・遠藤周作の妻
